九通目 ミヤちゃんだましい

いつか目も耳もだめになって気軽に音楽や本や映画をたのしんだりはできなくなる。最近とくにそうおもう。いつなにがあるかわからない、というよりは、確実に老いて衰えていくのを日々かんじるから。自分や他人に絶えずふりかかる時間を成長としてとらえていたころは、むしろ瞬間的かつ突発的なおわりばかり考えていたけど、最近はどうもミヤちゃん寄り。いつどうなるかわからないから好きなことをしようよ、ではなくて反対なんだミヤちゃんは。でもいつまでもいきていくのかもしれないんだよ?って。それはおわりを夢みるよりももっとエネルギーをつかうことで、さきがみえなくてもどこまでもすすんでいかないといけないなんて。という絶望。

ただおもったよりも長生き更新中のじんせいにおいては、他人のドロップアウトを目にする機会が否が応でもふえていく。とくにみずからすすんできえてしまうひとに対しては、無念さに胸がふさがってしまう。あのね、いきるってつらいけど、たとえばいちにちのうちでほんの1秒でもつらくない時間があるなら、そのわずかな一瞬のために一生をたくしてもよくないかな。なんておもってしまう。わたしもおちかけたじんせいだけど。いまだにくるしいこともあるけど。でもやっぱり、生きてこそなんだよって。送りたい。