十二通目 ほめられたい

カリスマによわい。不必要に愛想をふりまくことなく、やるべきことをおどろくべき速さできっちりこなし、うまくいっているときにはニコッとし、行き詰まったときにはきちんとなやむひと。そういうひとにカリスマ性をかんじて、わたしはすぐについていきたくなる。そうなるとそのひとから目がはなせない。まじまじと見ると気味がわるいだろうから、ほかのところを見ながら、そのひとの発言をひとことも聞き漏らすまいと耳をそばだてている。まるで盗聴。オープンな場でしかやらなくとも、それはまるきり盗聴なのかもしれない。

きょうはそのひとにひとこと、ほめられる機会があった。なんのことはない、たんなるひとこと。それだけですごく誇らしいきもちになったし、もっとほめられたいとまでおもってしまった。もしわたしの目のまえにそのひとがなにかを差し出したら、よろこんで受け入れてしまいそう。なにかのあやしい商売だとか、宗教だとか、そんなものをどこまでも有り難がってしまいそう。

だけど、そのひとのことをわたしはほとんどしらない。相手に至っては、わたしの名前すらも認識していない可能性が高い。だからわたしがカリスマだとおもっているそのひとは、勝手に妄想だけでつくりあげた綿飴のようなものだ。みているぶんにはきれいであこがれるけど、手でさわってみたらべたついて、くちのなかですぐにとけてしまう。ほんのちいさな砂糖の粒が正体なのはしっている。だけど綿飴をほしがるこころは自由だ。