十四通目 とまった時計とはしる汽車

よく通るみちに、おおきい時計がある。だけどこの数年、その時計が正確なじかんをさしているところをみたことがない。その場所には公共の施設があるけど、施設じたい、この数年つかわれていない。ということは時計も公共のものなのだ。施設がつかわれていなくても、時計は通行人が目にする。土地柄、通行人の大半は地元民だとおもわれる。それならば税金で時計をうごかす代金をはらってもよいのではないだろうか。でも、いまや時計なんてたいていのひとが持っている。だから時計のことなんてわりとどうでもいい。

その時計がとまっていることのほうが、この世の、この時間軸の真理なのではないかとかんがえてみる。とたんに、とまった時計が絶対的な存在となり、それ以外のものは輪郭がぼやけてゆうれいにちかいものになり果てる。わたしも、まわりのひとも、うごいているものぜんぶ。

そうかんがえると、毎日のいそがしさにいらいらしていることがばかみたいになる。そんなものはぜんぶ気のせいで、わたしたちはみんなとまっているのだ。とまっている時計こそが真実。

だけど、どれだけ夢中でおもいこんでも、命のパワーにはかなわない。一旦、命という源をそそぎ込まれてしまったら、いつかその水が尽きるまでうごきつづけなくてはならない。しずかな眠りさえも活動の一種で、わたしたちはつねに蒸気機関車のようにはしりつづけ、じぶんでもわからぬ方向へと命を燃やしつづけている。